あすにゃんの やっぱり『ナルニア』!!!!

『ナルニア国物語』にまつわるあれこれです。

10 『ライオンと魔女』024☆☆☆緩急のつけ方と和の精神

 9章でエドが石のライオンに恐怖し、それが石像だと知ってアスランだと思っていたずら書きをするシーンがあります。おちゃめなシーンです。

 そして10章の冒頭では、ミセス・ビーバーがのんきに旅行に食べ物を持って行こうとするシーンが挿入されています。
 こういう細かいところでホッと一息したかと思ったら、追跡されて逃亡するシーンが続きます。退屈させない作り方です。ただ、描写が続くので、それがつまらないといえばつまらない。そんな一行のところへ、サンタクロースが現れるのです。


 異世界ファンタジーにサンタクロースというところに違和感がある人もいるようですが、わたしはさほどではありませんでした。

 『ナルニア国ものがたり』は背景がキリスト教です。サンタクロースは、幼子イエスに3人の賢者がプレゼントを持ってきた故事に由来しており、キリスト教的背景だとバッチリわかります。

 

 わたしが違和感を感じたのは、平和的なプレゼントをするはずのサンタクロースが、ピーターたちには剣や弓矢、短剣や万能薬という、戦いのための備えをプレゼントしたことでした。白い魔女と対決するのは、話し合ってからの方が良かったのでは? と思ったのは、わたしが日本人の和の影響下にあるからでしょうか。

09 『ライオンと魔女』023☆☆☆エドの苦難と予言

 きょうだいを裏切ると決めて外へ飛び出したエド。著者は、エドのことをかばっています。

 

エドマンドは、ターキッシュ・ディライトが食べたくて、王子に(やがては王に)なりたくて、自分のことを「汚いやつ」と呼んだピーターに仕返しをしたかっただけなのだ


 逆に言えば、エドマンドは自分の感情の赴くままに動く頭の悪い男の子だということが出来ます。自分の欲望の命じるままに、魔女のところへ走ってく。


 その途中の道のりが、また寒そうです。あちこち木の根や切り株などがあったりして、エドはかなり苦労しながら、魔女の館へと向かっていきます。


 自分の苦労が報われると信じて努力する、その方向が違っているのです。読んでいる方は、エドが苦労しているのを、馬鹿だなと呆れる一方で、魔女が彼を歓迎するだろうか、と心配になったりします。

 それとは対称的に、アスランの方は『怖いけど善いお方』という表現です。
彼の到着は予言されていた、とビーバーさんが8章で言ってますが、これはもちろん、イエスの出現が旧約聖書で予言されていた、というキリスト教のスタンスを踏襲しています。

 ジェイディスの怖さとアスランの怖さ、どう違うのかは描写されている限りでは、よくわからない面もありますが、アスランには人間的な面があるということは追々わかってきます。エドにはそれが、判らないのです。

 

    先日わたしは、ナルニアではアスランが一番えらい、と書きましたが、アスランはユダのライオンと呼ばれるイエスのことを指しているらしいのです。イエスは天の王とされている神さまと同一視されています。

08 『ライオンと魔女』022☆☆☆逃亡―――エドときょうだいたちと矛盾点

エドマンドが裏切ったことを知った一同は、情報がどこまで漏れているか確認します。
アスランが来たことが魔女に知られたら大変だというビーバー。


 希望的観測を述べるピーターに、ルーシーが、
アスランを石にしちゃうんじゃないかとエドが言った」
 と指摘するんですね。で、ピーターが、そうだった、エドマンドが言いそうなことだ! と叫ぶんです。エドマンドって、ピーターに嫌われまくってます(汗)


 エドに情報が渡っている以上、ビーバーも巻き添いを食らう。長居は無用とばかりに、逃亡を図るビーバー夫妻。このとき、白い魔女がどこへ行くかで、夫婦の見解は違っているのです。


 ミスター・ビーバーは、人間たちの前に魔女が立ち塞がり、アスランと自分たちを分断するだろう、と戦略的な見解を述べるんですが、ミセス・ビーバーは、直接こっちに来るんじゃないかと指摘します。女同士、追跡のやり方はわかっているのでしょうか。

 魔女のやり口を、ミセス・ビーバーのほうがよく知ってるみたいなのがふしぎです。


 ふしぎと言えば、ミスター・ビーバーの行動も解せません。エドの顔をひと目見て、こいつは裏切るぞ、と思ってたとあとになって言い出すんです。魔女の食べ物を食べた顔をしていたけど、きょうだいだからと思って黙ってたって……。


 アヤシイと思った時点で、なにかテを打たなかったんでしょうか。ミスター・ビーバーの甘さが招いた事態ということも出来そうです。


 矛盾点めっけ。この前後で4人が玉座につけば魔女が死ぬって言い伝えがあるとか。
 ほんとかぁ? 『銀の椅子』でジェイディスが出ていた気がしますけど!
   

08 『ライオンと魔女』021 事情を聞く(人間とはなにか)

 タムナスさんが、白い魔女に捕らえられて石に変えられているかもしれない、という話から、アスランの正体(ライオン)、人間がナルニアの王座に就くことなどが判明するんです。その際、ビーバーさんは含蓄のあることばを告げます。

 

「何しろ人間になろうとして人間になれずにいる者や、かつて人間だったけれどもはや人間ではなくなった者や、人間であるはずなのに人間でない者に接するときは、よく用心して武器から手を放さないことです」

 


 このセリフを見たとき、幼いわたしは考えました。
 ――人間とはなんだろう。


 見かけは人間でも、性格は野獣のような人間はいくらでもいるのです。欲望を剥き出しにして襲いかかり、身ぐるみはいで暴力を振るい、ニュースになる人もいる。あれだって一応は人間で、法律で人権があるとされています。


 ナルニアの階層は、こういう順番です。アスランは百獣の王、その下に人間がいて、もの言う動物たちがその下にいて、その下が普通の動物たち。

 

 ナルニアにやってくる人間が、いわゆる「人間」であるかどうか、なぜビーバーにわかるでしょうか。アダムの息子、イブの娘だというだけで信頼してるのは、動物らしい軽率さから来るのではないのでしょうか。


  その危惧は当たっていました。話がひと通り終わった途端、エドマンドがその場を抜け出してしまったのです。彼が裏切ったことを、きょうだいはみな知ることになるのでした。


  ビーバーさんから見れば、エドは「かつて人間だったけれど今はそうではなくなった者」に属することになるのでしょうか。エド派としては、気になる先行きです。

07 『ライオンと魔女』020☆☆☆ファンタジーのグルメあれこれ

というわけで、ビーバーさんのところでミシン仕事をしていた奥さんが、ミスター・ビーバーの獲ってきた淡水魚を料理して、みんなで食べることになるんですが、これがまた美味しそうなんですよね~。魚のフライはわたしも大好きです! C.S.ルイスも好きらしいです(著者も同感である、なんて茶々を入れてます。笑える)。

 


 異世界ファンタジーを読む上で楽しみなのは、グルメが描写されているシーンでしょう。上橋菜穂子の『守り人シリーズ』でも、よく中央アジアふうのグルメが描写されていて、ところどころ違和感はありますが、世界に浸ることが出来ます。


 このナルニアは、イギリス北部のイメージが背景にあるそうです。なので、料理もイギリス風。イギリスの家庭料理は美味しくないという説があるようですが、たとえそうでもこの描写は素晴らしい。お腹が減ってるときには読まない方がいいかも(笑)


 ライトノベルでの異世界ファンタジーグルメは、だいたい「ステーキ」とか「アイスクリーム」とか「クレープ」とか、洋食が多いようです。和食は料理するのには手間がかかるというもあるし、あまり身近な存在ではないのかもしれません。わたしは好きですけど。


 ラノベ異世界食堂』で、異世界の人間が日本の洋食を食べて大感激するシーンがたくさん書かれています。わたしはそれには違和感があります。

 日本の洋食は、西洋料理を日本風にアレンジしているのです。中世西洋の人や亜人の味覚に合うのでしょうか。


 それを言うならナルニアでも、おやつがマーマレードロール(ビーバーが魚以外を食べる!)というところもあります。グルメも色々です。

07 『ライオンと魔女』019☆☆☆ナルニア最初のユーモア

ライオンと魔女』はシリアスな場面が多いのですが、笑えるシーンもあります。

 

 このあとでビーバーに連れられて一行がビーバーのダムを見るんですが、スーザンが儀礼的に、「なんてすてきなダムなんでしょう!」と言うと、顔につつましい表情を浮かべていたミスター・ビーバーはこのときばかりは、「しーっ!」と言わずに「たいしたことはありません! たいしたことはありません! まだ完成もしてないんです!」なんて言うシーン。


 ナルニアではじめての、ユーモラスなシーンです。氷だらけの湖に対して、「自分の丹精した庭を案内するときや、自分の書いた物語を読み聞かせるときに人がよく顔に浮かべる」表情を、ビーバーが浮かべる。想像すると笑えます。

 

 ものを言う動物、というのも奇妙でしたが、これで一気にわたしはビーバーさんを身近な存在として感じることが出来ました。

 


 白い魔女が迫ってきており、恐ろしい魔法で氷漬けになった湖を、誇らしげに、つつましげに、紹介するミスター・ビーバー。スーザンの世渡り上手というところもよく描写されていて、ここでもキャラクターの描きわけがしっかりされています。


 わたしが『ナルニア国ものがたり』を好きなのは、こういう細かいところなんですよね。生き生きとした登場人物、どんな端役にもリアル感があります。そこでちゃんと「生きて」いるんです。うらやましい才能です。

06 『ライオンと魔女』 018 アスラン到着の光と影

 コマドリが飛び去ったあとビーバーが現れ、タムナスに託されたハンカチを見せて味方だと言うのです。そしてビーバーは、アスランが到着していると告げます。


 そのとき、子どもたちの中でさまざまな感情がわきおこるのですが、ここのところの描き方がとても素晴らしい。わたしはここのところを暗記するくらい読んだことがあります。


 良質なファンタジーを読む、ということは、自分の中に別世界を感じることだと思います。そのアスランイエス・キリストを意味していることは、この際関係ないのです。むしろ、キリスト教的な背景はありながら、新しい世界の感触がある。


 エドがこのアスランということばに恐怖を感じたのは当然です。魔女の側についているというだけではありません。ひねた大人の感覚から恐怖したのです。帰り道のことを言ったのはエドマンドですし、コマドリにもビーバーにも疑いの目を向ける。素直に見ることの出来ないひねた大人の目線。

 

 「子どものように素直にわたしを受け容れなさい」ということばがイエスのセリフにあったはずですが、すでにエドマンドはじゃっかん大人になっています。

 

 この世界では、たぶん一番しっかりしている人間でしょう。だけどお腹は減るもので、疑いを抱きつつもビーバーについていく。その時彼は、ある恐ろしい考えが浮かんでいたのでした。


 『ライオンと魔女』において重要な役割を果たすエドマンド。どんな考えを抱いたかは、追々わかってきます。夢見るようなファンタジーの描写に、エドマンドの暗い考えが影を落とす。描写もさることながら、起伏の飛んだストーリー展開です。