あすにゃんの やっぱり『ナルニア』!!!!

『ナルニア国物語』にまつわるあれこれです。

14~17 『ライオンと魔女』最終章まで

 エドマンドのためにアスランは命を奪われます。その際のアスランのかなしげな様子と、魔女の手下どものあざける様子は、まさに聖書のイエスとその敵対者の記事を彷彿とさせます。つらいシーンです。


 しかしもちろん、この話はこれで終わりではありません。アスランは、いにしえの魔法よりさらに古い魔法によって復活します。そして魔女と戦い、これに勝利します。
 これを見ると、ナルニア国ものがたりの主人公はやはりアスランなのだろう、という印象があります。どんな物語であれ、主役が死ぬことはほとんどありません(もちろん架空戦記ものとか架空歴史物とかだったらあり得る話です。たとえば『銀河英雄伝説』などは、主役級のヤン・ウエンリーがテロで死んでしまいます)。なので、この話はほんとうはエドマンドが主役というわけではなく、アスランなのではと疑ってしまいます。


  そこで思い当たるのは、英語の感情表現です。関係ないと言わずに最後まで聞いてください。

 感情を表す動詞の語法―――surpriseなど感情動詞は「驚かせる」など『~させる』という意味になるんですが、その理由は、文化に宗教があるからです。

 

 日本人の考えでは、だれかに好意や嫌悪などの感情を感じた瞬間、自分の心に何かが芽生えたような感覚になるのですが、英語圏の人は「神さまが自分に興味や感情を持たせた」とふだんからそういう感覚です。

『生まれたときから小指と小指が赤い糸で……』云々みたいなこと、聞いたことありませんか。ひたすら他者が「~させる」「させる!」という意味を持ちます。

 人間は、感情で動く動物です。エドマンドにせよルーシーにせよ、アスランによって動かされているというメッセージを感じ取ることが出来るかもしれません。そしてその底にながれる、どんなにつらいことがあっても神がいればだいじょうぶ、という信頼を感じることもあるかもしれません。

 

 最後の章、『白ジカ狩り』でペベンシーきょうだいは現実世界に戻ってきます。「冒険が待っている」と期待して街灯まで戻ってきて、衣装だんすから転がり出てくるのです。
 そこにあるのは、ファンタジーの世界もワクワクする冒険だけれど、現実世界も冒険そのものだ、そして神さまといっしょならその冒険も軽々と超えていける――というC.S.ルイスの信念のようなものを読み取ることができるかもしれません。

 というわけで、『ナルニア国ものがたり』研究。いかがでしたか。
 したり顔であれこれ話すようなこともないので、この研究はここまでにしておきたいと思います(アクセスがないですしね……笑)。
また気が向いたら、続きも書くかもしれません。その節は、よろしくお願いします。

013 『ライオンと魔女』☆☆☆030 死に価する食いしん坊

さて、いよいよアスランが近づいてきたため、予言が成就するかも知れず、エドマンドに利用価値がなくなってきたと考えたジェイディスは、エドマンドを殺そうとします。エドマンドが木にくくりつけられてナイフを振り上げられたまさにその瞬間、救助隊が現れてエドを救助するのです。


 ご都合主義的展開ですが、その後のいきさつは白い魔女ドワーフに有利に展開します。魔法の杖を持っている魔女が、救助隊が来たのを見た途端、変身の術で切り株や丸石に変身し、難を逃れてしまうのです。


 エドマンドは救出されましたが、ジェイディスのほうも軍を集めて対抗しようとします。でそのあと現れたジェイディスは「いにしえの魔法」を口にして、裏切り者は自分のものだと主張します。


 つまり、エドマンドの命は、まだ完全に救われたわけではなかったのです。
 アスランは、ある提案をしてジェイディスにエドマンドの命を諦めさせるのですが、このあたりを不満だという人もいます。


 その人のいうには、
「ターキッシュ・ディライトを食べたいだけなのに、命を奪うってやり過ぎ」
 だというのです。


 子どもの本にしては、ハードなストーリー展開ですし、おやつを食べたい子どもにとっては、たかがお菓子くらいで命を奪われるのは怖い話です。アスランがその代償に払う犠牲を考えると、その疑問は当然あるでしょう。


 もっとも、ジェイディスの冷酷さを描写するには、こういうところはアリだとわたしは思っていますけれど。

12『ライオンと魔女』029☆☆☆ピーターの初手柄とわたしの初体験

 この『ナルニア国ものがたり』は、ほとんど血みどろの戦いは出てきませんが、この章に限って言えば、ピーターがオオカミと戦ってこれと勝利する話が出てきます。


 ほんの子どもが、剣を取って戦い、敵に勝利する。


 ありそうにない話ですが、描写がしっかりしていて、不自然さがないんですよね。
 あるいはサンタクロースからもらった剣に魔法がかかっていたのかも? 

 とか勘ぐりたくなるような活躍をピーターがしますが、その直前にアスランから、ナルニアの上級王としてケア・パラベルを紹介されて、自覚があったかも知れません。

 


 わたしがこの研究を始めたとき、このピーターの戦いをすっかり忘れていて、戦闘がないのがこのファンタジーのいいところだと思ってそう書いた記憶があります。でもしっかり、血なまぐさい戦闘シーンはありましたね(汗) でも、軽く書いてあるので、まるでラノベのシーンを読んでいるようです。


 ピーターの初戦は、角笛の音で始まりました。このことは、あとになっても伏線として効いています(『カスピアン王子のつのぶえ』で角笛が使われているからです)。戦闘シーンが好きじゃないので読み飛ばしていたのですが、研究のために詳細に読んでみると、細かいところで伏線が効いたストーリーがこのシリーズにはあちこちちりばめられていて、C.S.ルイスは天才だと驚いてしまいます。


 本を読むヒマがなくて、飛ばし読みする人だったわたしでしたが、このことを知ってからは、良質な本を丁寧に読む習慣をつけようとしています。自分の悪い習慣である飛ばし読みというオオカミを、ピーターがやっつけたみたいな気分です。

12 『ライオンと魔女』028☆☆☆アスランと『恐怖の善』 

 春が来たので、白い魔女から追いつかれる気遣いがなくなり、ゆっくりと石舞台に向かう一行は、ついにアスランと出会います。そこには、善でありながら同時に恐怖の対象であるライオンが、テントのなかで待っていました。

 

 エドマンドのことを聞かれたピーターは、自分のせいで魔女に走って行ったのだと謝罪します。なんとかならないか、とルーシーが泣きつくと、アスランは一瞬かなしげになりますが、「あらゆる手を打とう」と約束してくれます。


 アスランという『ライオン』には、善であるという定義がされていますが、具体的にまだこの時点で『善とはなにか』が定義されていません。頼もしい味方ですし、裏切ることはないのでしょうが、全面的に頼ってだいじょうぶなのか、という不安も多少はある。


 アスランがライオンである、ということには意味があります。イエス・キリストは西洋では、『ユダのライオン』と称されているのです。もちろん、百獣の王ということも含めて、威厳と権威の象徴。人々を導き、救い出す人。恐ろしいというのは、神さまだから当然。庶民的というわけではありません。


 裏切ったエドマンドを救うために、アスランはあることを決意しているのでした。それは、たかがターキッシュ・ディライトを食べたかっただけにしては、重すぎる決意でした。


 人によっては、食い意地の張った子どものために、命を捧げるのは不自然だというむきもあります。話が極端だというのです。


ファンタジーにありがちな極端さだと思えば。

11『ライオンと魔女』ナルニアの変化(『津軽』との比較)

 エドの氷のような心が変化するのと同時ぐらいに、ナルニアにも春の気配が忍び寄ってきます。あちこちに川が流れ始め、ヒメリュウキンカスノードロップサクラソウなどといったイギリス北部の春の花が咲き誇り始めます。


 このあたりは、日本の季節の花と比較すると面白いかも知れません。太宰治の『津軽』には、津軽の春の花として、さまざまな花を紹介しています。


 鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてゐる。背の低い柳、カシハも新芽を出して、さうして山を登つて行くにつれて、笹がたいへん多くなつた。


 この記事と、『ライオンと魔女』の描写を比べると、C.S.ルイスのほうが名前以上の情報が入っている。

 もちろん太宰治の『津軽』とは、ジャンルが違いますから、比べることは間違ってるのかもしれませんが、どっちを比べるにせよ、長い冬を越えていく木や花たちのたくましさは、リアルに感じることができるのです。


 白い魔女が『冬将軍』で、アスランは『春一番』だということも出来るかも。
 ナルニアは、C.S.ルイスにとっては、理想化されたイギリス北部、かもしれないですが、いかにも中世西洋風異世界ファンタジーの面目躍如です。このあたりの変化は、セカイ系の話と言えるかもしれませんが……。


 主人公の変化とセカイが繋がっているという物語の設定は、皇子の変化とセカイが関係している『精霊の守り人』シリーズでもありました。面白い話って、類似することがあるんですね。

11 『ライオンと魔女』026☆☆☆エドの変化(救われるために)

 エドは苦労して魔女の館にたどり着いたのに、帰ってきたのは冷淡な扱いでした。
 ひからびたパンに水を与えられただけだったのです。
 たいがいの小説は、苦労したらそのぶん報われるのがセオリーなのですが、このファンタジーはそう甘くない。せっかく情報を手にやってきたエドに、魔女は冷たい扱いをするのでした。人間的な面がまったくない魔女だからこそ、そういう扱いをするのでしょうね。


 ナルニアに住む動物たちや木々のなかに、魔女に味方する連中がいるんですが、たとえばタムナスさんも「魔女に仕えていた」と言っていました。こんな冷たい残酷な女が、報酬を与えるとは思えないけど、恐怖で従っていた。

 

 北朝鮮でも同じように、恐怖支配がされているそうです。でもね、人は恐怖ばかり与えられていたら、気力を失い、生きていくことができなくなります。反発し、反乱を起こす人だって出るでしょう。支配には飴と鞭が肝要です(笑)

 

 冷酷な魔女は、途中で出会った動物たちのパーティを石化してしまいます。そのときエドは、魔女を止めようとするのです。
 この時初めてエドは、他人に対して哀れみを感じた、と書いてありました。


 自分がぞんざいに扱われていることへの怒り、そして幸せなパーティをぶち壊しにした魔女への憎しみを感じていたことよりも、他人への哀れみがあった。それこそが、この物語での大切な変化です。自分もまた石化されるかも、という恐怖もあったでしょうが、いままでルーシーをいじめてばかりいたエドが、虐げられることで気づいた自分の変化。
 どんな人間にも、救われるところはあるのです。

10『ライオンと魔女』025☆☆☆女性を巻き込む戦いは……

 サンタクロースは、「女性を巻き込む戦いは見苦しいものになる」と言って、戦闘をしたがるルーシーたちをたしなめます。このあたり、C.S.ルイスの時代背景とか、あるいは『ナルニア』の世界観などを感じることが出来ます。


 対照的な例を挙げるなら、現代児童文学で有名な、『精霊の守り人』のバルサでしょう。
 バルサは用心棒ですから、進んで戦いに身を投じています。年齢的にも高いですから、『精霊の守り人』が大人のファンタジーっていう雰囲気がある。苦いテイスト描写も時々見られます。

 

 ナルニアが一種の「理想的な中世西洋風異世界ファンタジー」という面があるのとはぜんぜん違います。ストーリーラインも、ぜんぜん違います。ナルニア第一巻が、邪悪との戦いであり、アスランの犠牲と勝利を描いていますが、『精霊の守り人』は、自然の理のなかでもがく人間たちと、権威をめぐる血なまぐさい争いとが描かれています。


 両方が大好きなので、違うパターンの話でも好きなのです。それに、どっちも苦労して勝利を勝ち取る話ですしね! 苦労するのが男ばかりじゃ気の毒だとわたしは思っております。かばってくれるのはうれしいけどね。


 戦いは男のすること、という考え方は、第二次世界大戦の日本でもありましたっけ。
 女性のやることは「銃後の守り」だった記憶があります。


 最近の戦いが女性も参加しているコトが多くなりました。近い将来には、AI武器が戦争をリードするでしょう。ファンタジーも、だんだんSFがかってくる時代になってきたかもしれないですね。