03 『ライオンと魔女』010☆☆☆魔女ジェイディス
エドマンドのもとへ現れた魔女の名は、ジェイディスと言います。
この本の中にはちょっとしか出てきませんが、第6巻にあたる『魔術師のおい』で、その名が出てきています。(この魔術師のおいが、のちのカーク教授という話の展開になってます)。
この魔女の出現シーンは印象的です。まず、鈴のいっぱいついたハーネス。真っ白いトナカイ。魔女の乗っているそりに、あごひげの長いドワーフ。
雪の中でそりが鈴を鳴らしながら走る、というところは、どこか「サンタクロース」を連想させますが、ジェイディスはそんな優しいキャラクターじゃない。
自分は女王だと威張ってるんです。
エドマンドが、それは知らなかったとオドオド。自分は小学生で、いまは夏休みだと説明します。
さんざんルーシーを「ウソつき」とか言っていたエドマンドが、女王の傲慢さに あてられてビクつくさまは、少し滑稽です。
エドマンドはこのジェイディスを見て、めっちゃ背が高いという感想を抱いていますが、もともと彼女は巨人の娘という噂がある、というナルニア人の証言があったりします。
女王ジェイディスが、ここまで出張ってきたわけ。
それはルーシーの追跡です(言うまでもなく)。
自分の王位をおびやかす存在である「人間」を、排除するのが彼女の目的。
ということは、ナルニアには人間はひとりもいないってことです。
どこかのラノベで、「人間が最強」異世界の話がありましたが、アイデアはここから来ているのかもしれません。
03 『ライオンと魔女』 009☆☆☆ルー、ウソつきになる
というわけで、帰ってきたルーシーは、ほかのきょうだいたちに、冒険譚を話して聞かせるんですが、きょうだいは「作り話だ」として取り合いません。
間の悪いことに、衣装だんすまでがナルニアと通じなくなっている。
ウソつきだとみんなに思われて、ルーシーは泣いてしまいます。
ここでC.S.ルイスが巧みだと思うのは、『ナルニアへの扉は、いつも開いているとは限らない』というメッセージを含ませていると言う点でしょうか。
一時期ラノベの転生ものといったら、事故に遭ったら必ず異世界に行き、必ず冒険をする(またはスローライフを楽しむ)のがストーリーのテンプレートになってました。
主人公が単数で、しかもすぐに没入してほしいという作家の工夫でそうなったのでしょうが、個人的にはこのルイスのやり方も、悪くないと思います。特に、エドマンドとルーシーの関係を見る限りでは、エドマンドのいじめっ子ぶりがなんとも嫌味で、お友達になりたくないタイプなものですからなおさらです。
さて、ものの本では、ルイスは人間の「傲慢」こそが一番の罪だと考えていたそうです。
エドマンドは傲慢という点では人後に落ちないキャラクターですが、そういう人間こそが救われる価値があるのでしょうか。
ともあれ、エドマンドはそのあと、ナルニアにやってきます。
ルーシーのあとを追いかけたんですが、やっぱり街灯を見て呆然としている内に、白い魔女と遭遇します。
この魔女こそが、ナルニアを永い冬に閉じ込め、恐怖で支配している悪の権化。
エドマンドの持つ、悪の磁力のようなもので呼ばれたのかも。
02 『ライオンと魔女』008☆☆☆ひとさらい
タムナスさんの家の描写も優れていますが、食事もまたおいしそうなんです。でもそれ以上に、タムナスさんの話し上手なこと!
ドワーフにニンフといった、ギリシャ神話のおなじみのキャラクターたちの野性的で魅力的な生活ぶり。ラノベに登場してもおかしくないぐらい、個性的なキャラクターの描写です(もっとも、ラノベの傾向じゃないとは思うけどね)。
ファンタジーってこうだよね、というのがもろに判る描写の数々。
想像するだけで、楽しくなります。
そして、外国でのファンタジーと、日本の古典との違いとを、考えてしまったりもします。
古代の自然を描写する、という点で枕草子は、わたしにはファンタジーです。
そこから見ると、このタムナスさんの話は、野趣あふれていて、日本人の「柔らかさ」とは違ったなにかを感じることでしょう。
そんな野趣あふれる話をした後、タムナスさんは、自分が魔女の手先で、ひとさらいをするためにルーシーを歓迎したのだと打ち明けます。
その際、タムナスさんは自分の座っている椅子の床が池になりそうなぐらい泣くんです。
―――トムとジェリーみたい。
猫のトムは、ジェリーにしてやられ、涙涙で床が池になるシーンがよくありましたよね。
児童小説でアニメをやるとは思ってなかった(笑)
そのコミカルなシーンの後での白い魔女の恐怖支配の話。
そして、ひとさらいをする自分の話をするタムナスさん。
ナルニアを冬にした魔女に仕えており、人間の子を彼女に渡すのが彼の仕事―――。
ルーシーは、必死で「帰して」と言い、タムナスさんもそれに賛同します。
英雄の決断です。
02 『ライオンと魔女』 007☆☆☆小イワシ?!
巡り会ったタムナスと名乗るフォーンから、家に来ないかと誘われるルーシー。
おもてなしの料理として、瀬田貞治先生は「小イワシ」の油漬けと訳していましたが、これはいわゆる「オイル・サーディン」(土屋京子訳)のことで、わたしは最初なんのことかさっぱり見当もつきませんでした。
小イワシというのは、広島独自の言い回しのようです。瀬田貞治先生って、広島人なのか。あまり経歴を知らなかったり。
原典をあたったことがあります。これにはしっかり、オイル・サーディンと書いてありました。訳をするって、難しい。
このあとエドマンドもこのナルニアに来て、ナルニアの永久支配をもくろむ魔女から「プリン」をもらうことになるんですが、本来は「ターキッシュ・ディライト」というクリスマスのお菓子で、めちゃ甘くてあまりおいしくないそうです。どんなものなのか、ネット検索してみてください。
外国モノは、誤訳や意訳がいろいろあって、解釈が楽しいといえます。原典を手に取ることがあったなら、一度はナルニア国物語を読んでみて欲しいです。
それと、読むほうも、いろいろ教養が必要になるのが外国の本でして。
さきに言ったギリシャ神話のフォーンも、あとで出てくる木の精やバッカスなども、素養がないとわかりにくい。
その上に、方言を標準語と思ってしまうワナもあったりしますから、訳ってほんっと、たいへんだなーと思います。一人でやるのは危険かもしれません。
しかもこのフォーン。のっけから、イヴの娘さんですか、なんて問いかける。
聖書的な表現をするギリシャ神話のキャラクターです。
オリジナリティたっぷり。ちょっと間抜けて聞こえるところも、キャラクターとして立っています。
01『ライオンと魔女』 006☆☆☆お金持ち? フォーン
ナルニアでルーシーは街灯を見つけます。
森の中に街灯がある。もちろん、現代日本なら、あり得る状態。
山の一軒家にも、電気が通っている時代ですからね。
でもこの話は、戦時中の英国の話です。
皓然ときらめく街灯が、森の中に1本立っている。
電気も、燃料もナシ。
不思議であること、まちがいなしです。
このあと、ルーシーはギリシャ神話のキャラクター、フォーンと出くわします。
ちなみにWikiでは、
フォーン(Faun)は、(中略)とてもおとなしく、他者に危害を加えたりはしない平和主義者である。
だそうです。さいしょに出合ったのが平和主義者でよかった。
当時子どもだったわたしは、フォーンをパンと混乱しておりましてね、ギリシャ神話ではいたずら者で「パニック」の語源にもなった人だから、大丈夫だろうかと心配していました。
よく注意して読んでみると、このフォーンは雪の中、傘を差して歩いています。クリスマスみたいな買い物の包みを持っている。
子どもの頃は、さほど気にならなかったんですが、最近読み返してみて、ふと疑問に思いました。
魔女が恐怖支配をしている世界で、買い物の出来る店はどこにあるんだろう。
世界が百年の冬に閉ざされているわけですから、物資も豊かでないはず。お金はどうやって稼いでおり、どうやって生活しているのか。
『スターウォーズ』や『精霊の守り人』あたりだと、重厚な作りになっているので、没入感は半端ないです(が、そのぶん疲れます……)。
まあ、小学四年生向けだから、こんなものなのかもですが。
01『ライオンと魔女』 005☆☆☆衣装だんすとタンスにゴン
折からの雨でせっかくの外出がボツになり、屋敷探検をすることになったペベンシーきょうだい。
とある部屋でルーシーは、衣装だんすを見つけ、中に入り込みます。
その際、樟脳玉(しょうのうだま)が転がった、という描写が、なにげなく書いてあるんです。イマドキの子に、樟脳玉ってわかるかしらん。
だって「タンスにゴン」の時代ですよ?
あの樟脳の独特の匂いも、じゃりじゃりした白い小さな玉も、知らない子が多いだろうなと思うと、寂しい気持ちになります。(イギリスにも樟脳があったというのは驚きですが)
☆ ☆ ☆
この衣装だんすに入るとき、ルーシーは扉を少し開けることを忘れていません。ピッタリ閉めるのはバカな子のすることだと知っていたからだ、と作者は説明します。
この本を読んだ幼い子どもたちが、バカなマネをして窒息しないように配慮したのだという論も見たことがありますが、このあとエドマンドがピッタリ扉を閉めた描写があるので、ルーシーとエドマンドの性格&頭のできの違いを描写したかったのでは、と憶測します。
衣装だんすの奥へ、奥へと進むルーシーは、やがて雪景色のナルニアへとたどり着きます。このシーンは、ナルニア国物語中でもっとも有名なシーンです。印象的で神秘的、そして美しい世界の物語が、いま、はじまるのです。
昨今、アクションから入る物語も多いですが、この『ナルニア国物語』シリーズは、アクションはほとんどありません。ほんとうのファンタジーは、アクションなしでもじゅうぶんだということを、原作者C.S.ルイスは語っているのかもしれません。
01 『ライオンと魔女』 004☆☆☆意味のない序列
この『ライオンと魔女』では、
ピーターが長男、スーザンが長女でエドマンドが次男、末っ子がルーシー
ということになってますが、最初 瀬田貞治先生の訳を読んだときはそれが飲み込めず、なんどか読み返して納得しました。
英語圏では、長男や次男には、あまり意味がない、とそのとき実感しました。
ともかく、カーク教授の広い屋敷に、しばらく泊まることになって、気の弱いルーシーはこの屋敷が不気味であることにおびえてしまいます。音を感じて「あれはなに」、と口走ったり。
「ただの鳥だよ、ばーか」
いちいちつっかかってるエドマンドは、ルーシーのいい子ぶりをやっかんでいるのでしょう。
小さな子にも、ちゃんと負の感情がある。
ちょっと残念なのは、ペベンシーきょうだいが、どんな姿をしているのか、ほとんど描写がないこと。
とはいえ、そのカーク教授の屋敷が、相当な田舎だということは、きょうだいのセリフでもうかがい知れます。
明日、外を探検しよう、と長男のピーターが提案するものの、翌日はザアザア雨が降っている。
スーザンは、ラジオや本で暇を潰そうと提案しますが、ピーターは屋敷探検を提案します。みなは大賛成。
そこから『異世界へのどこでもドア』を見つける話になっていくんですね。
角野栄子は、
本の表紙は物語のドア
だと言ってました。
多大なる物語の影響です。